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市場で読書

2019-05-16 | 20:00

夕飯のおかずにと買い物にでかけることがあった。中学生になったらなんだか行くのが嫌だった。ど
うしてかというと同級生が店番をしてたりするからだ。それも女生徒だったからなおさらだった。ふ
だん話なんかしないんだが、言葉をかけなきゃしかたがない。鯨のカツなんか買ったなあ。これがお
かずになるんだなんて思われるんだ。それがなんだか恥ずかしい気がした。だから市場の入り口近く
に来るとその店のほうをそっと見た。いないとすこし安心した。でもちょっぴり残念な気もした。そ
の子が好きなわけではなかった。あの気分はなんだったんだろう。一度時間が遅くなって急いで市場
へ行ったときがあった。あたりは薄暗くなりかけていた。買い物客もまばらな時間帯にさしかかって
いたのだろう。その子は本をひろげていた。なにか熱心に読んでいる。教科書かな、でも大きさから
いってちがう。きっと小説を読んでいるんだ。そう思うと急に彼女が大人になったように見えてきた。

N1669上目遣い

「特捜部Q ―カルテ番号64―」ユッシ・エーズラ・オールスン 吉田薫訳 早川書房 ★★★★
コペンハーゲン警察署特捜部Qが今回挑む未解決事件は八〇年代に起こったナイトクラブの女主人の
失踪事件である。助手アサドとローセの調査によりほぼ同時期に五人もの行方不明者が出ていること
が判明した。事件と無関係というには不明者が多すぎる。カール・マーク警部補には見過ごせない点
だ。捜査を続けるうちに浮かびあがってきたのは凄惨な過去をもつ女性ニーデ・ローセンだ。そして
新たな政党「明確なる一線」を興そうと画策する元産婦人科医師だったクアト・ヴァズだ。生きる価
値のある人間と生存しても社会の発展に寄与できない人間を選別する権利を主張する政党なのだ。彼
らには強制的に不妊手術をすることもいとわない価値観がある。読んでいるとドイツ・ナチスの党是
が浮かんできたりする。本シリーズで特異な魅力を放っているのはローセ・クヌスンだ。ローセはと
きどきユアサに人格が変わる。だがカールが彼女の母親に電話するとなんとユアサ・クヌスンがでた。
実際にユアサという妹がいたのだ。
『「ローセとは双子ですか?」
「いいえ」ユアサはまた笑った。「わたしたち四人姉妹ですけど、双子はいません」
「四人!」少し声が大きすぎたかもしれない。
「ええ、ローセ、わたし、ヴィッキー、リーセ・マリーリの四人です」
「四人姉妹……それでローセは長女なんですね。それは知りませんでした」
「ええ、でも全員年子なんです。両親は一気に子作りを片づけたかったんですけど、男の子がいっこ
うに出てこなかったんで、母があるとき閂をかけてしまったんです」そう言って豚がうなるような低
い声で笑った。まるでローセだ。』
ということで、今後も新たなる人格が登場するかもしれない。ミステリのストーリーとは別に非常に
興味深い。こういうことでミステリは読者を獲得していくものだ。話の展開は本書を読んでいただく
しかない。しかしある意味、悲惨な話なのである。だがこれが現代のデンマークの現実でもあるのだ
ろう。なんども書いているがミステリは世相を映す鏡でもある。ユッシ・エーズラ・オールスンおそ
るべし、なのだ。最後にカールが腹を壊したときのアサドとの会話が笑えるのだ。
『「俺は家に帰る。アサド。腹が完全に壊れちまった」
 きっと言うぞ。だから言ったじゃないですかって。
 だが、アサドは机の下から傘を取ってカールに差しだすと言った。「ラクダは咳とうんちを同時に
できないと困るんですよ」
 それって、どういう意味なんだよ?』
思わず笑わずにはいられない。ミステリにはユーモアがないとなにか気の抜けた感じになる。次作が
おおいに楽しみである。

「不可能、不確定、不完全―「できない」を証明する数学の力」ジェイムズ・D・スタイン
                  熊谷玲美・田沢恭子・松井信彦訳 早川書房 ★★★★

世のなかにはいろんな感性の人がいる。本を読むのは好きだという人はそこそこいる。だが、数学・
物理学・化学などという字を見るだけで拒絶反応が起きる。そうおっしゃる方もいる。理由を訊くの
だがいまひとつ判然としない。いやそうではなくその曖昧模糊とした世界にいるのがこころよいだろ
う。ものごとはすべて法則に従っているなんてことはないのだとのたまう。たしかにそう思うことは
ある。だがそれが科学一般を嫌う理由にはならないだろう。いやとにかくそういった字を見るだけで
頭痛がするのだと。さいわい私は頭が痛くなったことはない。しかし眠くなることはある。本書をベ
ッドで読みながら二度バタンという音で目が覚めた。二十世紀にはいって知について「限界がある」
という仰天するような帰結が三つ導かれたというのだ。興味深いではないか。
『現実の世界で私たちが知りうることやできることに、数学の論理を駆使して見出すことできる真理
に、そして民主主義を導入して達成できることに、限界があるというのだ。なかでもとりわけ有名な
のが、一九二七年にヴェルナー・ハイゼンベルクによって発見された不確定性原理だろう。それによ
ると、物体の位置と速度を同時に知ることはできず、全知の存在さえ、宇宙に存在する全物体の位置
と速度をラプラスに教えることはできない。続く三〇年代に証明されたクルト・ゲーデルの不完全性
定理は、数学上の真理を決めるための論理に不備があることを明らかにした。ゲーデルが不完全性定
理を確立した十五年ほどのちにはケネス・アローが、投票者が属する社会の選り好みを各投票者の選
り好みに基づいて満足に表せるような票の集計方法がないことを示している。』
これらはどれも数学的な帰結であり、その妥当性は数学的な証明によって確立されているという。こ
の世界は数学でできている。比喩ではなくそう確信しているのだ。まあそういえないこともないかと
は思うのだが特殊である。そう考える自分がいるというだけで満足なのだ。それに異を唱えることも
ないだろう。だが別の解釈があっても別にかまわない。そうであれば問題はないのだ。解法は一つで
はないということだな。解に虚数が混じっていてもいい。数学はそういうパラダイムを許すのだ。た
だやっかいな神についての問題は残る。で次なるパラドックスは神の非存在を証明するのか。
『神が存在するなら、その神は全能を有するはずだが、それなら神は自分で持ち上げられないほど重
い石を作ることができるのか? そのような石を作ることができないなら、神は全能ではありえない。
そんな石が作れるなら、その石を持ち上げられないという事実は、神が全能ではない証拠となる。』
西欧の神は全能なのだと知るのだ。神が全能でないと日本人ならだれもが知っている。全能の神が存
在するとすれば、この世に悪行は起こりえない。だが悪は満ちている。悪の概念が相互でちがってい
るのか。ああ、堂々巡りの世界できりきりと舞うしかないのだろうか。

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Theme : 最近読んだ本
Genre : 本・雑誌

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