ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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ありし日
ときどきヒトのからだってよくできているなあ、などとしみじみ思うのである。
それは日常のなにげない動作にいちばんよく現われている。
例えば、いまなら「冷やっこ」を食べるときなど、この動作はロボットでは無理かなと思う。
壊さないように箸でつまんで食べるだけなのだが、これがむずかしいのだと科学者は言う。
同様に読んだり書いたりすることも、日常意識をしていないが複雑なシステム構成であるだろう。
草むらのなかで動き回る蟻を見ていると、つい自分が蟻になっている想像をしている。
山あり谷あり(けっしてシャレではない)の荒野を今日も仲間とともにかけめぐるのだ。
ヒトであれ昆虫であれ、ただ生きているだけでそれは目を瞠る光景なのだ。

「ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト」 ニール・シュービン 早川書房 ★★★
進化論では、生物はすべてひとつの系統から変化・発展してきたということになる。
だから、なんの関係もないような生物の器官がヒトの器官のそもそもの始まりであったりする。
これらの器官はおどろくほど精巧につくられている。
だが、急激な変化にはついていけないのである。少し長いが引用してみよう。
『私たちの心臓は血液を送り出し、血液は動脈を通って全身の器官に運ばれ、
静脈を通って心臓に戻ってくる。動脈は心臓に近いので、血圧は静脈におけるよりはるかに高い。
このことは、足から心臓まで戻ってこなければならない血液に特別な難題をつきつける。
足からの血液は上に向かって、つまり脚の静脈を伝って胸まで昇っていかなければならないのだ。
もし血液が低い圧力のもとにあれば、目的地まで昇り切ることができないだろう。
結果として、私たちは血液の上昇を助ける二つの形質をもっている。
一つは小さな弁で、これによって血液が上に向かって流れるのは許すが下に降りるのを防ぐ。
二つめの特徴は、脚の筋肉である。歩くとき、私たちは筋肉を収縮させるが、
この収縮が脚の静脈内の血液を上に押し上げるのを助ける。
一方通行しか許さない弁と、脚の筋肉の押し上げ作用によって、
私たちの血液は足から胸まで昇ることができるのである。
 このシステムは、活動的な動物ではすばらしくうまくいく。
活発な動物は、歩き、走り、ジャンプするのに脚を使うからである。
しかし、じっとしていることが多い動物では、このシステムはうまく機能しない。
脚があまり使われないと、筋肉は静脈内の血液を押し上げないだろう。
血液が静脈内にたまれば、問題が発生する。
なぜなら、血液の滞留は弁の故障を引き起こすことがあるからだ。
これはまさに下肢静脈瘤で実際におこっていることである。
弁が故障すると、血液は静脈内にたまる。静脈はしだいに太くなっていき、
膨れあがって、脚のなかで迂回路をつくるようになるのである。
 言うまでもないことだが、静脈がそのような状態にあれば、
下半身に本当の痛みをもたらすことがある。
トラック運転手や長時間椅子に座る仕事をしている人は、痔疾にかかりやすい。
座ってばかりの私たちの生活が支払うべきもうひとつの代償である。』
ヒトはなぜ歩く必要があるのか、よくわかってもらえたことだろう。

「街場の教育論」 内田樹 ミシマ社 ★★★★
教育はなにをめざしているのか、だれもが見失っているのかもしれない。
なんのために勉強するのか、その意味もわからなくなってしまった。
だがとにかくいい成績をとらなければ始まらない、と焦っているのだろうか。
学力の向上は至上命題のようでもあるが、それはどうすれば達成されるのか。
それはなんのためか。一昔前なら、すべての人を幸せにするためにと教条的だが思っていた。
『今の日本では、学力の向上は「競争」を通じて達成される、と上から下までみんな信じています。
たしかに、個人の学力は競争を通じて向上させることができます。
けれども、「競争に勝つ」ことのたいせつさだけを教え込んでいたら、子どもはいずれ
「自分ひとりが相対的に有能で、あとは自分より無能である状態」を理想とするようになります。
「相対的に」というところが味噌です。』
これをあらわす端的な数値が、偏差値と呼ばれるものではないだろうか。
相対的に幸せになって、相対的に豊かになれればそれでいいのだ、ということだろうか。
しかし、相対的にとはつねに緊張していなければ維持できないシステムではないか。
相対的にということは、相手があってのことであるから到達目標も流動的にならざるを得ない。
あきらめと憂鬱とが緊密に関係している時代ということができるのだろうか。

「生と死とその間」 ハロルド・L・クローアンズ 白揚社 ★★★
神経内科医のクローアンズ先生の話は大変におもしろい。
それはフィクションではないからだ、ということもよくわかっている。
事実は小説よりも奇なり、なのでありそれゆえに悲劇的な物語は底が知れない。
ユダヤ人である筆者は科学者でもあるからナチスの行為をどう考えるべきなのか。
『動物実験に反対する権利はある、と私は思う。
科学的根拠があるわけではないが、権利はある。
胎児移植に反対する権利もある。
しかし、ナチの戦争犯罪と同一視しないという権利もある。
将来もし法律が変更されることがあったとしても、それまではそれをモラルに反するとか、
非倫理的であるとか、違法だとか、言わない権利もある。
法律が変ってもモラルが変わることなどないのだが。
 しかし彼らには権利がある。
 そして権利のあるところ、何らかの義務がついてまわる。』
よくわかってないというよりは狡賢い人は、決して法律を犯してはいないなどと弁明する。
あなたは法律に違反さえしなければ、なにをしても許されると思っているのだろうか。
モラル(倫理)と法律との間には、ある意味なんの関係もないものだ。
だからモラルは強制できないし、それだからこそ人生観がわかるのである。

4800石仏
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遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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