ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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早春紀行(最終回)メビウスリングの世界
 誰になにかを言おうというのではなく
 寂しさから逃れるのでもない
 思いのたけを告げようというのではなく
 感じることを伝えるのでもない

 億年の遙かかなたから
 連綿と絶えることのない大地の深い呼吸は
 青いインパルスとなって
 シナプスの森を彷徨い続ける

 デルフォイの神殿に掲げられた「汝自身を知れ」とは、哲人タレスの言葉だという。
だが、いざこの言葉を実践しようとするならば、これがことのほか難しいことがわかる。
自分の尾を追う犬のように、いつまでもぐるぐると同じところを廻ってしまうのだ。
あと少しで捉えられるというのに、そこからはちっとも進むことができやしない。
ましてや自分の尾であるということすらも分からなくて、やみくもに走るばかりだ。

 ほんとうの自分を捜すために旅にでるのだと、誰かが言う。
真の自分と、仮の自分がいて、こころのなかでせめぎ合っているという。
世間という過酷な世界では、本来の姿をさらして生きることなどできはしない。
仮面を被り、こころの内を見抜かれないように、息を潜めて生きる。
お愛想と、お追従の日々に疲れ果てると、誰も知る人のいない町を夢想する。
日常性の仮面を脱ぎ捨てて自由に生きたい、とつかのまの旅にでるのだ。
住む町を離れ見知らぬ土地を旅しているうちに、いつしか自由なこころがかえってくる。
ほんとうの自分に出会えたならば、偽りのペルソナを捨て去ることができる。
こうして、のびやかで自由な生来の自分にもどれたのだ、と訳もなく思えてくる。
 それで納得できるのであれば、それはそれでいいではないか。
しかし、ほんとうの自分と仮の自分だとは、なんと多重人格のようなことをいうものだ。
人格をどんどん分裂させて、そのなかの気にいったものだけが自分だというのだな。
 ぼくはこんなふうに考えたりもする。仮の自分というのは、言い訳にすぎない。
誰にでもない自分に対する言い訳なのだ。自分で自分を説得しているのだ。
心理学でいう合理化と同じで、納得できるものが是非とも必要だということ。
 こんなことをいう子どもたちや学生を見かけたことがないか。
「ほんとうにやれば、もっと勉強だって出来るんだ。でも、いまはなんだかやる気がしない」
「勉強だけが人生じゃないし、なぜ勉強ばかりしなければならないんだい」
「それに学校の勉強は社会にでたとき、全然役になんか立たないんだ」
自分で経験してきたようなことを言うが、論拠も勝手な思いこみばかりでしかない。
自分に都合のいいことだけしか言わないし、どうしても言い訳に聞こえる。
なんだかどこか妙に似ているように思えてしかたがない。
 そううがった見方をしないでも、ほんとうのところはきっと寂しいのかも知れない。
話し相手もなくて、つまり自分しか話す相手を見つけられないということだ。
 人はひとりぼっちになると、幻覚を見るよりは幻聴が聞えてくるのだろう。
話す言葉は自分の耳からのフィードバック入力となって自分を安定させるものだ。
独り言はけっして特異的性格のせいではなく、自己保全本能なのものかもしれない。

「おばちゃん、ごちそうさま」
 開け放たれている硝子戸から店の外にでると、まばゆいばかりだった。
港へむかう道をすぐ右へ折れて、墓地のなかを歩いていった。
お彼岸の名残だろうか、しおれかけた花がそれでも鮮やかな色をみせていた。
どこからかほのかに線香の煙がうすくゆらゆらと立ち昇るようでもあった。
 ふだんはめったに通らない道へと曲がり、民家の裏の狭い道をたどっていった。
枯葉が散らばる道は、軒先の波打つトタン屋根がすぐ眼の前を通りすぎていく。
急な勾配が感じられるあたりから道をおおうように木々の葉が茂り、ひんやりとしている。
それでも、坂を昇っていくぼくの鼻孔には草いきれが充満していた。

 三虎へもどってきて、裏から台所にはいるとおばさんがひとりでいた。
薄暗がりのなかでおばさんは水仕事をしていた。
はいってきたぼくに気づくと、手を休めてこちらを見た。
ぼくはどさりと椅子に腰をおろして、言った。
「みんな、帰っていってしもうたわ」
「そう。寂しくなるわねえ」
「去る者は日々に疎し、か…」
 とつぶやくと、
「きっとまた来るわ。必ず会えるわよ」
「誰のこと言ってるの」
「Tさんでしょ」

 ぼくはおばさんにTさんのことなど話した覚えはない。
なのにどうして、おばさんがTさんのことを知っているのだろうか。
なぜだろうという思いが、いつまでもぼくのこころをめぐった。
 たくさんの人の重みに擦れて角が丸くなった木の椅子にすわり、
水道の蛇口からときおり落ちる水滴をじっと見つめていた。
 季節が移り変わるように、ぼくも立ちどまっていることはできない。
流れる水は時々刻々入れ替わる。だがしかし、川はそこにある。
時の流れのなかで、ぼくはぼくであり続けられるのだろうか。
それとも、どうしようもなく変わっていってしまうのだろうか。
 ひとつ旅を終えれば、それはまた新たな旅の始まりを意味した。
ぼくはひとり旅するうちに、メビウスリングの世界に迷いこんでいた。

6023メビウスリング
  [メビウスの帯Ⅱ] ウッド・イングレービング 1963年 M.C.ESCHER
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島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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