ムッシュの読書紀行
人生は旅のようだと言いますが、旅が人生かも知れません。 ぼくは活字中毒気味でもあり、旅はまだまだ続くでしょう。
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頬杖で読書
芥川龍之介が好きだった。文庫本の見開きにあるポートレートをながめる。いかにも神経質そうだ。
文章もきちんととしていて谷崎潤一郎などとはまるでちがう。これも性格によるのだと思う。小説よ
りも批評、エッセイに鋭さを感じる。なんといっても「侏儒の言葉」だ。序にはこうある。『「侏儒
の言葉」は必しもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺わせるのに過
ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草、――しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているか
も知れない。』まさに芥川の思想そのものではないか。『人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱
うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危険である。』若さゆえと自分を許していたころを思いだ
す。『女人は我我男子には正に人生そのものである。即ち諸悪の根源である。』悪はときとして魅力
的でもある。この世のなかに悪がなかったならのっぺりしたつまらない光景しか見えてこないだろう。

N0416羅漢

「火花」 又吉直樹 文藝春秋 ★★★
芥川賞受賞作だそうだ。ひところ話題になったので予約しておいたのだが、やっと順番がまわってき
た。天才は(天災だったか)は忘れたころにやってくる。芥川賞の選考委員はすべて作家である。斎
藤美奈子女史が指摘するように同業者の同業者による同業者のための賞なのかもしれない。そういう
意味ではまんまと成功した。八方めでたしで結構なことである。だから一般読者とはすこし論点がず
れるところもある。わたしとしてどのような業界の思惑があろうとかまわない。それに目くじら立て
るほどの思い入れもない。小説としておもしろければいい。ということは、個人的な趣味趣向にかな
っているかどうかだ。つぶやきシロー氏の「私はいったい、何と闘っているのか」が思いうかんだ。
でもあちらはどちらかというと直木賞だな。もうすこしつぶやきシロー氏が世間的に有名で人気があ
ったならばダブル受賞もあったのではないか。ある意味出版業界の救世主になったかもしれないと妄
想がふくらんだいく。さて、本書の主人公の徳永はお笑い芸人を目指していた。その彼が師と仰ぐの
が神谷だ。神谷は奇矯な言動が特徴である。しかし世渡りは下手だ。読んでいて同人誌なんかこんな
感じなのかなと思ったりする。もちろん同人誌からも有名な作家は生まれている。かなり前の世代に
なるのではあるが。血気盛んな青年は理屈っぽい議論を好む、というような。そんなに力まれても当
惑するのである。とりたてて文章が上手ということもない。そんな視点からは選ばれていないか。ま
あ可もなく不可もないという感じだろうか。最後に思った。この作品名「火花」より「花火」のほう
がよかったのではないか。

「ポピュリズムとは何か」 ヤン=ヴェルナー・ミューラー 板橋拓己訳 岩波書店 ★★★★
近年世界でポピュリズムが台頭してきたといわれている。だがポピュリズムとはなにか。これがその
定義だというはっきりしたものがない。そういうなかで議論がおこなわれているということは案外と
多いのである。さてポピュリズムだ。一般的に日本では否定的な意味をこめて大衆迎合主義などと訳
されている。ではその大衆とはなにを指していうのか。政治家はよくいう。大衆あるいは庶民はそん
なことを望んでいないと。すこしおかしくなって笑うのである。あなたのいう大衆となにか。またリ
ベラルということばもある。もともと「自由な」「自由主義の」を意味する英語であるが日本ではす
こしニュアンスが異なる。リベラリスト(自由主義者)とは到底思えないような方が言う。どちらか
というと左翼じゃないの。最近では左翼じゃイメージがよくないのでリベラル。それで周囲もなんと
なく時代に乗っかった感じになっている。困ったことだとも思わない。前置きが長すぎた。この本の
ことを書こう。この本では実名で政治家が登場する。それでなくてはいけない。
『トランプがしたように、あらゆるポピュリストは、「人民(the prople)」と、利己的で腐敗したエ
リートを対置する。しかし、権力者を批判する者が、みなポピュリストというわけではない。真にポ
ピュリストを特徴づけるのは――これが本書の主たる論点だが――自分たちが、それも自分たちだけ
が真正な人民を代表するという彼らの主張である。』
似たような言い回しはしばしば日本の政治家もする。たとえば、筆者はこのような例をあげている。
『チャベスは、「チャベスとともに人民が統治する」というスローガンが大好きだった。皮肉なこと
に、この人民とひとりの忠実な代表者との同一視が意味するのは、究極的にポピュリストは、いかな
る政治的責任も負わないということである。トランプは、自分が人民の真正な意志の単なる執行者に
過ぎないと言い張っている。』
このいかなる政治的責任も負わないというところがポイントである。ダブルスタンダードといわれよ
うともいっこうに平気である。政治家はそのくらいの肝をもたなければなれるものではない。そこが
一般大衆とのちがいでもある。ポピュリズムはどのくらい世界に蔓延しているのだろうか。
『「世界に幽霊が徘徊している。ポピュリズムという幽霊が」。一九六九年に刊行されたポピュリズ
ムに関する論文集の序文で、ギタ・イオネスクとアーネスト・ゲルナーはこう書いた。』
いまやコミュニズムではなくポピュリズムの時代なのだ。またその一方で民主主義はどうなっている
のか。比較してみるとこうなるという。
『民主主義は、マジョリティが代表に権限を与えることを可能にする。その際、代表の行動は、市民
のマジョリティが望んでいたものと一致したり、一致しなかったりする。他方でポピュリズムの場合、
ポピュリスト政府の行動は、「人民」がそう望んだからという理由で、異議を唱えることはできない
と主張される。民主主義においては、マジョリティの判断は誤りうるし、議論の対象になりうると想
定され、マジョリティの交替が前提とされている。他方でポピュリズムにおいては、あらゆる制度の
外にある同質的な実体の存在が前提とされ、そのアイデンティティと理念は完全に代表されうると想
定されている。』
いままで考えていたり、なんとなく感じていたポピュリズムとはすこしちがうのだ。


テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

波止場で読書
船が出てしまうと、やがてだれもいなくなる。さっきまでの喧騒はどこへ消えたのか。ひとり残って
海を見ていた。出会いと別離は裏表の関係がある。出会いがあるから別離がやってくる。別離のあと
に出会いが潜んでいる。そんなことをいっても別離の感情が慰められはしない。行ってしまったな、
と思う。なぜいっしょに行かなかったのか。答えははっきりしている。いつまでもいっしょという訳
にはいかないからだ。別れは早いほうがいい。そんな考えを忘れるためにベンチに座って本を開いた。
世界はどこにでもある。微生物は快か不快で行動を決定する。酸は不快だから避ける。糖は快だから
近づき取りこむ。単純だ。ヒトはどうして単純に生きることができないのか。理想があるからなんじ
ゃないの。比較するのよね、現実と。いつまでも旅する人って哀しいよね。そういうものかね。そう
は思わないの。わからん。再び本の活字を追いはじめた。答えなんかないわよ。行動あるのみか。

N0573本浦港

「『コーラン』を読む」 井筒俊彦 岩波現代文庫 ★★★★
世界にはいろんな宗教がある。そのなかでもユダヤ教、キリスト教、イスラム教は淵源を同じくして
いる。もっとも後発であるイスラム教とはどのようなものなのか。経典である「コーラン」をもとに
しての勉強をしたいと思った。日本での碩学の代表でもある井筒氏の著作を読んでみることにした。
公開講義の書籍化ということで語り口調の文が読み易い。しかし砂漠の地で誕生したのは思ったより
もちがいが大きいものだと感じる。ムハンマド(マホメット)はいったいどういう人物なのか。そこ
から読み解いていかなければならない。彼は神ではない。預言者なのだ。モーセもアブラハムもキリ
ストさえもイスラームの考えでは預言者なのだ。余談だが、預言と予言はちがうのでご注意を。預言
とは神がある特別な人にコトバを預けるということなのだ。その預言を集めたものが「コーラン」に
なる。ではそれを翻訳したものを読めばいいのかというとそうではないと井筒氏はいう。
『『コーラン』は遥か彼方のアラビアの、遠い昔の本。我々とのあいだには大きな距離がある。第一
に時間的な距離。もう一つは空間的な距離がある。今のコトバでいいますと、ライフ・コンテクスト
がまるで違う。『コーラン』が成立した頃のアラビアの人たちと我々とでは、生きる世界が違うので
す。七世紀のアラビア砂漠に生まれた言語テクストとしての『コーラン』を、現在の日本人である我
々には、そのまま読んでそのまま理解するということはできない。ライフ・コンテクスト、つまりフ
ッサールがいう「生活世界」がまるで違っているのですから。『コーラン』と我々との間を空間的時
間的疎隔がへだてている。その疎隔を越えて我々はこの言語テクストを読まなくてはならない。』
このライフ・コンテクストについての考えはわたしたちが忘れやすいことだ。注意しなければならな
いとわかっていてもつい忘れがちになる。それとキリスト教で有名な「はじめにことばありき」。こ
れはなにを意味しているのか。ときに考えていた。井筒氏はこう書く。
『イスラームばかりではなくて、広く『旧約』なども含めて、セム民族的な宗教感覚では――古代社
会では、どこでもそうかも知れませんが――名があるということは存在するということなのです。何
かが特定の名をもっているということは、そのものが存在するということ。従って、ものの名を知る
ことは、そのものを自由に処理する力をもつことです。』
名づけ、つまりことばにする。ことばが存在することをどう受け取ればいいのか。そこには一つの重
大な言語哲学的思想の萌芽を含んでいるというのだ。
『ものに名前があるということは、ものが存在するということ――それがこの思想の中心軸です。い
かなるものも、名づけられてはじめて存在する。名のないものは存在しないと同じ。『コーラン』だ
けの考え方ではありません。例えば、古代バビロニアの宇宙創造神話のなかでも、天地創造以前とい
うかわりに、「天地がまだ名づけられていなかった頃」という表現が使われています。「天地がまだ
名づけられていなかった頃」、すなわち天地が創造される以前ということなのです。明らかに、「名
づけられる」ということと「創造」ということとが同義的になっている。』
またイスラム教では、人が存在することすなわち神を讃美することであるという。どういうことなの
か。だれもが不可解と思うかも知れないがこうである。
『では、なぜ存在することが神を讃美するかというと、なによりもまず、何かが存在するということ
は、それが神に創造されたということだからであって、それゆえに、すべての存在者は己れの存在の
事実そのものによって神の創造の業を讃えることになるのです。そしてそれはさらに、神の創造行為
の底にある神の意図を讃えることでもある。』
なるほどね、とはならないが興味深い。大学生のころ、バートランド・ラッセルの「宗教は必要か」
「宗教から科学へ」を読んだ。だが内容をほとんど憶えていない。本棚のどこかにある。また読んで
みようかと思う。記憶のどこかになんらかの痕跡があるだろう。また掘り起こして考えてみたい。読
書はこうして自己のなかにたたみこまれていくのだ。

「ミスター・メルセデス」上 下 スティーヴン・キング 白石朗訳 文藝春秋 ★★★★
早朝の薄靄がたちこめる市民センターには職を求めて多くの人々が集まっている。その群集めがけて
メルセデス・ベンツが突っこんできて多数の死傷者がでた。犯人は逃亡し事件は未解決のまま残され
る。彼はミスター・メルセデスと名づけられることになる。事件の担当だったホッジス刑事はやがて
定年退職をむかえた。そんなある日彼のもとに犯人からだという挑発の手紙が届く。彼はなにが目的
でこうした事件を起こしたのか。車は盗難車だった。車の持ち主オリヴィア・トレローニーは責任を
感じてか自ら命を絶った。オリヴィアが亡くなったあと、彼女の妹のジャネルから真相究明の依頼を
うける。そしてホッジスは独自に事件を再度洗いなおすべく動きだす。近くに住む黒人の高校生であ
るジェロームとジャネルの従姉妹で中年のコンピュータおたくのホリーとの協力を得ながら犯人をさ
がしはじめる。一方、犯人フレイディ・ハーツフィールドはアルコール依存症の母親とふたりで暮ら
していた。彼は家電量販店と移動販売車でのダブルワークをこなしていた。その仕事の傍らホッジス
の動向に注意をむけてもいたのだ。彼の生い立ちもある意味不幸で複雑な家庭環境なのだった。そん
なある日冷蔵庫に隠していた毒入りの挽肉を母親が知らずに調理し食べ死亡する。事故ともいえるこ
のことに彼はいらだつのだ。ついに彼は最後の大量殺人計画を実行する決断をする。その顛末はどう
なるかは読んでいただくしかない。またこのホッジス、ジェローム、ホリーのトリオで続編があると
いうことなので楽しみにしたい。


テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

映画館で読書
とくに映画が好きというわけではない。だが嫌だと断れなかった。映画を見るのと彼女と会うのとを
天秤にかけた。会うのが勝った。映画につきあうしかない。どんな映画かは知らされてはいなかった。
そこに不満はない。だって映画が見たいわけではないから。彼女とならなんだっていい。しかしそれ
を言うと、きっとご機嫌をそこねるだろう。だから言ってはいけない。それでよく失敗をする。時間
前に着いたのでロビーで本を読んでいた。もちろん映画の原作などという無粋なことはしない。まっ
たく関係のない文化人類学のものだ。ヒトは文化をもつ動物である。サルにもあるらしい。ヒトも霊
長類だったな。いつのまにか未開の地に降りたっていた。人にとってなにが幸せなんだろうかな。電
子機器に囲まれた快適な生活、かあ。そのとき彼女がやってくるのが見えた。文明人の登場だな。そ
の雰囲気を察知したのか。彼女は言い放った。なに考えていたのか白状なさい、わたしのこと以外で。

N0521桜散る

「脳が壊れた」 鈴木大介 新潮新書 ★★★
筆者の鈴木氏が四十一歳のときに右脳の脳梗塞で倒れた。後遺症は軽かったがいくつかの高次脳機能
障害が残ってしまう。これがやっかいだったのだ。彼は職業がルポライターであったこともあり、そ
の状況や後のことなどを観察・考察・記録したものが本書である。まれな体験記ということでもある。
医師側からではなく患者側からというのが貴重なのだと思う。身近にそういう病気になった方がおら
れれば、なるほどあのときのことはこういう状況だったのかもと理解がすすむだろう。「相手と目を
合わせられず右上方を凝視してしまう」といった症状がおきた。この説明はむずかしいのだがといい
つつ彼はこう説明するのだ。
『「視界の左側に猫の礫死体が転がっている」。もしくは同じく左前方に、親しい友人の女性や、僕
の尊敬する大好きな義母(妻の母)が「全裸で座っている」感覚。
 分かるだろうか? 分かっていただきたい。
 こんな状況におかれつつ身体は正面を向いていろと言われたら、なんとかして右の方に視線をそら
したくなるのが人情だろう。絶対見てはならないものが左前方にある! だから僕は右を見る。左半
分の世界はないことにしたいんです僕は。』
半側空間無視という症状だろうか。この場合だと、左側の空間が意識的に見れない。見れないからに
はなんらかの理由があるはずである。もちろん機能的な障害ではない言い訳がこれなのだろう。いわ
ゆる辻褄合わせということでもある。脳は理由付けをする。もちろん無意識にそうなるのである。あ
と読んでいて気になったのが「片す」ということばである。たびたび出てくるのだが、関東地方の方
言だろうか。片づける、という意味だろうと文脈で理解した。ライターということなのでご一考を。

「愛する者に死を」 リチャード・ニーリィ 仁賀克維訳 早川書房 ★★★
マイクル・コステインはニューヨークにある出版社の社長である。しかし業績は思わしくない。そん
なおり一通の手紙が届く。サンフランシスコの消印がある。愛人であり編集部長のジーナといっしょ
にすぐにサンフランシスコに飛んだ。到着したホテルで、マイクはゆっくりともう一度読む。
『わたしは殺人を計画している。
 場所はサンフランシスコ、九月八日夕方に実行する。犠牲者は女性。彼女はこれまでずっと死に値
した。わたしは処刑人であることに喜びを感じている。
 …… 』
タイプの署名はP・Sとなっていた。これがほんとうの話ならベストセラー級の本が約束されるだろ
う。もしかしたらこれはたちのよくない悪戯なのか。すこし疑惑がわいてきたところにベッドルーム
の電話が鳴った。相手の声はP・Sだと名乗った。会う住所と時間を指定してきた。嘘ではなかった
のだ。さてどうするのがいいのか。だが彼は出かけて行った。そこは下宿屋のうす汚い部屋だった。
ベッドに横たわっていたのは女性だった。手首と踵を縛られて裸のまま死んでいた。これは罠だった
のだろうか。二人はあたふたとニューヨークに引き返す。あれは悪夢だったのだろうか。だがサンフ
ランシスコ・クロニクル紙の一面の「コールガール殺さる」の記事を見た。全段抜きの大見出しが報
じている。これからどうなるのだろう。やがてサンフランシスコ市警からフレンドリー警部がやって
くる。事件はコステインの娘キャロル・スチュアートとその夫で副社長のデイヴィッド、さらに法律
顧問のサム・メリマンをも巻きこんで意外な方向へとすすんでいくのだった。こういう趣向がアメリ
カ的なのだろう。やはりヨーロッパのミステリとはまったくちがう。どちらがいいとはいえないが、
好みの分かれるところだとは思う。


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春風のなかで読書
春風がそよぐころになるとこころが騒いだ。背中を押されるように旅にでたのだ。田畑は様変わりの
ときをむかえる。むんむんとした草いきれに満ちる夏は木陰でひと休みした。はるかに湧きあがる積
乱雲に畏怖感をいだきもする。虫たちが騒ぐなかを歩くのが常だった。いつしか気配は秋模様である。
樹々には実りの果実がなる。夕暮れの陽がえがく風景に寂寥をおぼえていた。朝夕がめっきり冷えて
くれば冬の到来である。獣たちの一部は冬眠の準備に余念がない。こうしてまた来る春をまつという
のだろう。季節をめぐりながらいつも読書していたわけではない。ぱったりと書を伏せてあくせくと
働いた時代を思いだす。いつの時代がよかったなどという感慨をいだいたことはない。あるがままに
受けいれる。自然のなかではヒトの小ささを知る。ほとんど存在しないに等しいのだ。そのほんのひ
とときを読書してすごす。なぜ読むのだろうとしばし考える。だが本があれば読まずにいられない。

N0371蛇口

「言葉の煎じ薬」 呉智英 双葉社 ★★★★
ひさしぶりに呉さんの本を読んだ。おもしろい。本はおもしろくなくてはいけない。しかしそのおも
しろさ、人によっては好き嫌いがあるかもしれない。わたしは悪口を書いているのが好きだ。ただ悪
口であるからこそ感情的ではいけない。論理的でありかつまた反論があるならどうぞの姿勢が必要で
ある。またみずからまちがっている思ったら素直に誤りを認める度量がなければならない。あたりま
えのことである。攻撃するのなら、反撃をうけることもある。それでこそ議論が成り立つ。評論家の
加藤周一氏が多くを学んだという松尾善弘「尊孔論と批孔論」白帝社にはこんな記述があるという。
『「孟子の思惟論理がすべからく演繹法であることを押さえておかなければならない」
「荀子の思考方法はすべからく『一分為二』『合二而一』『否定の否定の法則』『量から質への変化』
の論理で貫かれている」
「須く」は主に漢文訓読に使われる言葉で、意味は、命令・義務・当為である。「すべて」などとい
う意味はない。
・すべから-ず(禁止) ~するな
・すべから-く(命令) ぜひ~せよ
 こう考えればわかりやすいだろう。
 恐しいことに、松尾善弘は東京教育大学で漢文学を専攻した後、鹿児島大学で助教授を、山口大学
で教授を勤め、漢文の入門書も著している。「須く」を誤用する漢文学者も珍しい。』
他にも事例をあげておられる。「すべからく」を「すべて」のつもりで得意気に誤用する風潮は一九
七〇年代に始まったという。問題なのは無知な庶民を威嚇したつもりで亜インテリが使う難解な言葉
の誤用は、それとは較べものにならないほど、醜くて、卑しいと呉さんはいうのだ。小椋佳氏につい
ての叙述はすこし笑った。彼はシンガーソングライターでしかも学歴、職歴がすばらしいという。東
京大学法学部を卒業後、現在のみずほ銀行に就職。エリート行員として仕事をしながら、音楽活動を
続け、最近、東京大学文学部に再入学した。やはり一流の人物は私のような凡人とはちがう。
『しかし、国語力がちょっと変だな。
 小椋佳で大ヒットとなったのは、一九七五年、布施明が歌った『シクラメンのかほり』である。こ
の「かほり」、現代仮名遣いでも変だし、歴史的仮名遣いでも変だ。前者なら「かおり」、後者なら
「かをり」である。「お」を何でも「ほ」と書けば歴史的仮名遣いというものじゃない。
 ……
 それにしても、なぜ「かおり(かをり)」ぐらい辞書を引かなかったのだろうか。それに、そもそ
もなんでこんなところに歴史的仮名遣いを用いなきゃいけないのだろうか。どうも、ほかしな、いや、
をかしな国語感覚である。
「かほり」だけではない。小椋佳の名前も変だ。
「小椋」は「おぐら」でいいのだが、「佳」は「けい」とは読めない。音読みなら「か」、訓読みな
ら「よし」が普通である。これを「けい」とするのは、旁の「圭」に引きずられた百姓読みである。
これも感心できない。』
苦笑するしかないんですが、小椋さんもとんだ災難でありました(笑)。でも歌はすてきですけどね。
あとふたつほど書いておきましょうか。
『英語にダウンタウンdown townという言葉がある。これを下町のことだと思っている人が多いが、そ
うではない。ダウンタウンは、商業地区、繁華街のことである。』
芸人のダウンタウンにどういう意味で名付けたのか訊いてみたい気がします。
『正しくは、アウトローは、法の埒外に放逐されたが故に、法の保護を受けることがない者、という
意味なのである。法の保護の外に置かれているから、これを殺すも可、捕えて奴隷にするもまた可、
性的凌辱を加えるもこれも可、法は関知しない、という追放された者なのである。』
日本人はどちらかというとアウトローを法という規範に挑み、敢然とそれを踏み越えて行く者だと思
っている。まったく方向が逆なのでした。だから話がかみあわないのかな。

「数学する遺伝子」 キース・デブリン 山下篤子訳 早川書房 ★★★★
世のなか数学と聞いただけで拒否反応を起こす人が少なくない。だがその人たちは決してお金の計算
にうといということではない。もちろん算数と数学はおなじではない。筆者は数学者である。だが、
冒頭にこう書く。
『私は小学校のとき、算数が嫌いだった。しかし一九七一年に、二四歳で数学の博士として大学を出
て、以来ずっと数学者をやっている。』
そこで数学とはなにかと疑問がわいてくる。たしかに数学とはなんなんだろう。筆者はこう答える。
『もっとも一般的なのは、数学とはパターンの科学であるという答だ。』
では数学者のいうパターンってなんなんだろうとだれもが思う。
『さまざまな種類のパターンが、さまざまな数学の分野を生みだした。ととえば、数論は数と計数の
パターンを研究する(算術はそれを使う)。幾何学は形のパターンを研究する。微分積分法はは運動
のパターンをあつかうことを可能にする。論理学は推論のパターンを研究する。確率論は偶然のパタ
ーンをあつかう。トポロジーは距離と位置のパターンを研究する。』
でも数学は抽象的な記号ばかりで表わされる。だから理解しがたいんだ。そう思われる方もおおい。
『抽象的な記号にたよるのは、数学者の研究するパターンが、抽象的なパターンだからだ。』
なんだそういうことか、とはならない。でも人はいろんなことにパターンを見出している。あの人の
行動はパターン化されてるよね。このデザインはある種パターンの繰り返しだ、とか。科学もパター
ンを研究しているのだ。
『一九世紀初期に数学者が結び目のパターンの研究をはじめた。動機は純粋な好奇心だった。しかし
この二五年間に、結び目の数学を使った抗ウイルスの研究がおこなわれており、その多くはDNA分
子の結び目を変えるという方法をとっている。』
いろいろと役立つ研究なんだ。そういえば自己相似性の図形はフラクタルと呼ばれるがこれも繰り返
しがある。雪の結晶などにはその形が顕著だ。それにこんなこともパターンが関係している。
『たとえば私たちはたいてい、何十年も会っていない友人や親戚をなんの苦もなく認識できる。その
人の顔の細部はおそらく変わっているはずだ。実際、相手の外見が変わったことにまず驚くが、それ
でも認識できる。変わった部分がたくさんあるのに、同じ顔だとわかる。どうやら顔の認識には、多
数の個々の変化に左右されない高次のパターンがかかわっているらしい。』
そういわれるとそうだ。きっとパターン認識で顔を判断しているんだ。そう考えると人の認識はパタ
ーンが重要な部分をしめているとわかるのだ。ということは数学的にものを見ている、ということに
なるのだろうか。


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遊園地で読書
こどもは遊園地が好きだ。世間はそういう認識らしい。思いだしてもこどものときに遊園地に行った
という記憶はない。せいぜい小学校の遠足でだ。すこしちがうが競輪場に父と行ったことがある。も
う小学生になっていただろうか。その場所はいまではサッカースタジアムに様変わりしている。だか
らなのだろうか、遊園地が嫌いである。いや嫌いというより興味がないのだ。そんな場所より池や山
のなかがいい。遊具なんかいらない。自然はそれ自体が遊び道具なのだ。昆虫を採ったりしたことも
あったが観ているだけでいい。地面を駆け抜けていく虫たちがいる。草叢は虫たちのジャングルだ。
どこまでも続く密林を越えてどこへ行こうとしているのか。虫は冒険家なんだろうか。どうしてこん
な形をしているのだ。食べ物はいつも足りているのか。そんなことを考えて時間を忘れてしまってい
た。メリーゴーラウンド前のベンチに腰かけ本を読みながらときにそんなことを回想したりするのだ。

N0284海

「警視の挑戦」 デボラ・クロンビー 西田佳子訳 講談社文庫 ★★★★
イギリスで有名な大学といえばオックスフォードとケンブリッジだ。そしてふたつの大学と切っても
切れない関係にあるのがボート競技だ。日本での早稲田と慶応のように。もちろん日本のほうが後追
いである。さて、シングルスカルの競技者として頂点を目指していたレベッカが練習中に襲われ死亡
するという事件が起きた。その手口から犯人はボート競技に通じている人物だと思われた。おまけに
レベッカはロンドン警視庁の警部だった。育児休暇にはいろうとするタイミングのキンケイド警視だ
ったが、警視正からじきじきに捜査責任者に指名される。カリン部長刑事とともに捜査にのりだすこ
とになる。このふたりのコンビがなかなかいいのだ。刑事・探偵ものはこのペアの出来・不出来に印
象がおおきく左右されるものだ。その意味でも今回はこのコンビがいい味をだしている。さて捜査な
のだが、まずは定石どおり離婚した元夫が疑われる。だが、どうもピンとこない。いろいろと被害者
等の周辺を調べているうちにある事実につきあたった。レベッカはどうやらレイプ事件の被害者にな
っていたらしい。その相手というのが社会的に地位のある人物だという。だから警視正がキンケイド
警視を指名したのだろうか。その圧力に屈するつもりはないが、はたして彼が犯人なのだろうか。ダ
ンカン・キンケイド警視シリーズの第14作目。ひさしぶりになかなかワクワクさせられる展開であ
りました。ミステリはこうでなくてはいけないですね。

「時間旅行者のための基礎知識」 J・リチャード・ゴット 林一訳 草思社 ★★★
タイムマシンといえばすぐにH・G・ウェルズのSF小説が思いうかぶ。タイムトラベルはだれもが
いちどは夢見ただろう。時空間を抜けていくというイメージが映画などの映像によって刻まれている。
そのときちょうど電車のなかで本書を読んでいた。トンネル内を通過しているときだった。あたかも
自らが粒子となり時間の障壁を抜けていくかのような不思議な気持ちになった。ありえないことなの
に。だがほんとうにありえないのだろうかという思いもわいてきた。量子力学的世界にはいりこんだ
のだろうか。本書は物理学からみたタイムマシンあるいは時間についての考察である。過去へもどる
のと未来へ行くのとではちがいがあるのだという。そのあたりの説明は読んでいてもむずかしい。は
っきりといえば、理解できているのかどうかいささか頼りない。
『過去を訪れるのはともかく、たんに見たいとお望みであれば、それはたやすい。今日だって見てい
る――光の速さが有限のおかげだ。もし四光年離れたケンタウルス座アルファ星を眺めれば、今ある
がままではなく、四年前の姿を見ているのである。』
すでにアルファ星は存在していないという可能性もある。ではあるが、納得しかねるのだ。
『ある意味では、われわれはすべてタイムトラベラーである―― 一秒に一秒の速さで未来に進む。
時空は紙に書いて目で見えるようにすることができる。垂直に時間を描き、水平に空間を描く。あな
たの世界線は下から上に伸びる直線で示され、つねに未来に進む。しかし、アインシュタインの重力
理論は時空が屈曲する可能性もあることを示している。かりにこの一枚の紙の上の部分(未来)を折
り曲げて、下の部分(過去)と貼り合わせ円筒を作る。そうすれば、あなたの世界線は局所的には時
間のなかをつねに前向きに進んでいるように見えるにせよ、じつは円筒をまわって出発した場所にも
どることができる。あなたの世界線はいわゆる閉じた時間的曲線を作りあげる。』
なるほどね。航海に出ればそれが実感できるというものだ。地球は平らではないからだ。同じように
時空が湾曲していれば、と考えることができる。M・C・エッシャーの画はいつもそんなことを思い
起こさせてくれる。平面の住人は三次元のことを想像できないだろう。二次元に描かれた三次元空間
の奇妙さに魅入られるのこととタイムマシンを想像することはどこか似ている気がするのだ。


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島を旅するときが楽しいですね。
遠くに眺めるのも好きです。
楽園なんてないんですけどね。

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